【事実婚】パートナーと自由で対等な関係を作るには?
こんにちは。やまもです。
結婚という形を考えたとき、「どちらかが相手や相手の家に合わせる側になる」というイメージを持つ人は、少なくないと思います。
姓を変えるのはたいていどちらか一方ですし、「嫁ぐ」「お嫁さんをもらう」といった言葉もまだ普通に使われています。
そう考えると、「自分の人生を持ったまま、対等な関係でいられるんだろうか」と感じる人もいるのではないでしょうか。
自分たちは、籍を入れない事実婚という形を選び、今は事実婚のパートナーとして暮らしています。
今回は、事実婚という関係のなかで、自由で対等な関係をどう作っていくのかについて考えてみます。

そもそも対等な関係とは?
「自由」「対等」という言葉は、人によってイメージがかなり違うと思います。
僕は、ひとまず次のように考えています。
- 自由:お互いが自分の時間や選択を持てること(相手に無関心でいることではない)
- 対等:ふたりの関係を一緒に作っていけること(どちらか一方が合わせ続けたり、我慢し続けたりしない)
あくまで自分なりの考えですが、この記事ではこの意味で「自由」「対等」という言葉を使っていきます。
性別や立場で役割を決めつけない
対等さを考えるうえで大事なのは、「どちらが上か」という関係を作らないことだと思っています。
例えば、「これは女性の仕事」「これは男性が決めること」といった役割を、性別や立場だけで固定しないことです。
自分たちの感覚に近いのは、「それぞれの人生の中に、お互いがいる」というものです。
まず、それぞれの人生があって、そのうえでその一部を一緒に過ごしている。
どちらかが、どちらかに従属しているわけではありません。
また、対等というのは、どちらかが我慢して帳尻を合わせることでもないと思っています。
片方がいつも折れることで成り立っている関係は、表面上は穏やかに見えても、本当の意味で対等とは言いにくいのかなと感じます。
お互いが無理をしすぎず、ちゃんと自分の意思を持ったまま一緒にいられることが、自分にとっての対等な関係に近いです。

どちらの姓・どちらの家という枠を持ち込まない
対等さを考えるうえで、結婚(法律婚)によくある「どちらの姓を名乗るか」や、「嫁ぐ」「家に入る」といった感覚には、少し引っかかるところがあります。
現在の法律上、結婚はどちらかの家に入る制度ではありません。
それでも、日常の言葉や慣習の中には、どちらか一方が相手側に合わせるような感覚がまだ残っている気がします。
僕は、そこに少し違和感があります。
僕たちは、もともとお互いに苗字を変えたくない派でした。
あんぽん(相方)は、「変えるなら珍しい苗字がいいけど、やまもの苗字はありふれているから、自分の苗字のままがいい」と言っていました(笑)。
僕自身も、あんぽんに自分の苗字を名乗ってほしいと思ったことはありません。
変えてもらって当然だと思ったこともありませんでした。
だから、自分たちにとっては、どちらも苗字を変えない形が自然でした。

法律婚と事実婚で対等さはどう変わるのか?
日本の法律婚では、夫婦は同じ姓を名乗ることが要件になっています。
つまり、結婚するときには、どちらかが必ず苗字を変えることになります。
制度上は「夫・妻のどちらの氏を選んでもよい」とされていますが、実際には、婚姻届を出した夫婦のうち約94%で女性側が改姓しているとされています。

仕組みとしてはどちらを選んでもよくても、現実にはその負担が大きく偏っているのが現状です。
苗字を変えると、免許証や銀行口座、仕事関係の名義など、さまざまな変更手続きも発生します。
一方で、事実婚では婚姻届を出さないため、婚姻を理由に姓が変わることはありません。
法律婚のように夫婦として新しい戸籍が作られることもなく、互いが戸籍上の夫婦として記載されることもありません。
なので、「どちらが苗字を変えるか」という問いが、そもそも発生しません。
僕はこれを、対等さの土台の1つだと感じています。
少なくとも僕たちにとっては、スタート地点で「どちらが姓を変えるか」を調整しなくてよいことが、とてもフラットに感じられました。
ただ、ここは強調しておきたいのですが、苗字を変えないこと自体が、対等さを保証するわけではありません。
あくまで、「対等な関係を作りやすい前提がひとつ整う」くらいの話です。
法律婚を選んだ人が対等ではない、という意味でもまったくありません。

自由で対等な関係を続けるために意識していること
大げさなことをしているわけではありませんが、自分たちが事実婚として暮らすなかで、関係が変にズレないように意識していることはいくつかあります。
相手に必要以上に干渉しない
自分たちは、お互いの予定や友達関係にあまり干渉しないタイプです。
一緒に暮らしてはいますが、別々に過ごす時間もかなり多いと思います。
例えば、同じ映画館に行って別々の映画を見たり、ライブやフェスに一緒に行っても、それぞれ別の場所で見て、終わったタイミングで合流したりすることがあります。
旅行でも、現地集合・現地解散にすることがあります。
パートナーとはいえ、そもそもは別の人間です。
先ほども言いましたが、「まず相手の人生があって、その一部に自分もいる」という感覚に近いです。
だからこそ、相手にも自分にも、それぞれ自分の人生をちゃんと楽しむ時間があっていいと思っています。

「やってあげている」という感覚を持ち込まない
対等さがこっそり崩れるのは、「自分がやってあげている」という感覚が出てきたときだと思っています。
「自分はこれくらいやっているんだから、相手もこれくらいやってくれるはず」
そういう期待が強くなると、知らないうちに「だから、これくらい言ってもいいよね」という気持ちが乗ってきやすい気がします。
僕たちの場合は、得意な人が得意なことをやるという形に近いです。
そして、相手が担当していることを、自分の基準で評価しすぎないようにもしています。
もちろん、完璧にできているわけではありません。
ただ、「分担してあげている」ではなく、「得意だからやっている」と考えるだけでも、関係の空気はけっこう変わる気がします。
相手に過度に干渉したり、期待しすぎたりしない
地味ですが、自由で対等な関係を続けるうえでは、これは結構大事なことなのかなと思っています。

自由=無関心ではない
ここまで読むと、「ただ放任しているだけでは?」「お互いに無関心なだけでは?」と感じる人もいるかもしれません。
なので、少し補足しておきます。
自分たちが別々に動けるのは、お互いの人生を尊重しているからだと思っています。
「相手には相手の人生がある」というのが、ふたりに共通している前提なので、相手の予定や選択に対して、いちいち「なんで?」とはなりません。
もちろん、まったく気にしないということではありません。
ただ、相手が自分で選んだことに対して、必要以上に口を出したり、理由を求めすぎたりしないという感覚です。
相手への尊敬の気持ちを忘れないことも、意識していることの1つです。
いいところは素直に認めて、自分にも取り入れられるところは取り入れていきたいと思っています。
また、干渉しないことと、相手に無関心でいることは、まったく別だと思っています。
自分たちは、わりと定期的に、お互いがどう思っているかを自然に話している気がします。
散歩中やドライブ中に、気づいたらそういう話になっていることが多いです。
自由に動きつつ、必要なところはちゃんとすり合わせる。
そのくらいのバランスが、今のところ自分たちには合っているのかなと思っています。

最後に
自由で対等な関係は、法律婚や事実婚といった制度や形が、そのまま与えてくれるものではないと思っています。
自分たちの場合、籍を入れないことは1つの出発点でした。
ただ、そこから先は、日々の選択の積み重ねだと感じています。
制度に乗っているから関係が続いているというより、「自分たちで選んで、この関係を続けている」という感覚が大事なのかなと思っています。
もちろん、これはあくまで自分たちの場合です。
事実婚が唯一の正解だと思っているわけではありませんし、どのカップルにもそのまま当てはまるやり方でもないと思います。
それでも、対等な関係を作るうえでの1つの例として、「こういう形で暮らしている人もいるんだな」と知ってもらえたらうれしいです。
ということで、今回はこのあたりで終わりにします。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、また。
